芝生に埋もれて、一匹の虫が死んでいる。
六本の脚を内向きの状態で開き、反り返っている。
鎌のような形状をした二本の前脚は、その特徴を綺麗に残したまま立体感を失い、押し花のような風流さえある。
また、死骸には無数の黒い斑点模様が群がっている。
これはこれで、うじゃうじゃと動いている。解体した死骸の一部を運んでいる。
その列は段差や繁みをもろともしない。たとえば、列を割るように石を置いてみても、すぐに迂回して新しいルートを作ってしまう。
一人の少女がその様子を見ていた。名前はヒズミ。背後の木に腰を下ろし、ぼんやりと見ていた。
すると、頭から丸い物が転がり落ちた。少女の手元で止まったそれは、赤い果実。
顔に近づけると甘い匂いがする、美味しそうな果物。
思わず口を開いた少女はそこで手を止め、頭上を見上げる。木にはまだたくさんの果実が残されていた。
と、木陰から現われた少年がいたずらっぽい笑顔でそれを取り上げ、食べてしまう。
「シャリッ……」
砕けた果肉から爽やかな音がして、ヒズミは夢から目が覚めた。
瞼を擦り、身体を起したヒズミは少しずつ覚醒する意識の中で、目の前にある世界を見る。
空を覆い隠してしまうほどの巨大な木が密集する、壮大な景色。右を見ても左を見ても同じようなもの。果てのない、永遠の世界がそこには広がっている。
そこにある巨木の根元で、ヒズミは休んでいた。
突然の豪雨に見舞われた彼女は、雨宿りできる木陰を探し歩き、やっと見つけたこの場所で身を潜めていた。
服に染み付いた雨水は臭い。腐った時の酸っぱい臭いがする。
ヒズミはそれを脱ぎ捨て、水を絞り出した。深いため息を吐いて、とても嫌そうに絞った。
相変わらず、雨は降り続いている。
ぽつり、ぽつり、したたり落ちる雫を眺めて休んでいた彼女は、いつの間にか眠っていた。そして、あんな夢をみた。
目が覚めた時、雨は止んで、服も着られる程度に乾いていたので、ヒズミはその場を去ることにした。
ヒズミはある場所へ向かっていた。
雨でぬかるんだ地面に裸足を踏み入れ、歩き出す。その足跡は濁り、泡を吹いていた。
道なき道を歩く中、不意に現われた倒木はヒズミの目の前を端から端まで横断して動かない。
道を塞がれたヒズミはすぐに迂回しようと考えたが、ちょうど倒木の真ん中あたりに立っていることに気付いて、考え直した。
右に回ろうが左に回ろうが、大変な距離がある。
それまでにある面倒な道のりのことも考慮すると、木を乗り越えてしまう方が楽に思えた。
幸いにも乗り越えられそうな大きさの木なので、苔と雨でずるずるに滑る木目でも、なんとか上れた。
頂点に立ったヒズミは、そこから見下ろせる広い世界の中から小さな湖を見つける。
記憶の片隅に追いやられていた光景が蘇る。それは、少年と水遊びをした楽しい思い出だった。
倒木を滑り降りた彼女は湖の方角へ向かって歩き出した。
何処からかともなく動物の鳴き声が聞こえる、そんな場所に小さな古代湖がある。
この湖はとても綺麗な水質をしていて、多くの動物の水飲み場になっていることを少女は知っている。
実際今の今まで、とある群れがここで休憩をとっていた。のんびりと水を飲んでいた。
彼らはヒズミの存在に気付いて一目散に去った。ヒズミはそのことに気付いているのか、いないのか。何にしろ、何もしなかった。
ヒズミは喉が渇いていたので、湖の水を飲むことにした。透き通る水面に両手を沈める。そして、掬い取った水を飲み干した。
その水というのは、湖の水とは似ても似つかない茶色に濁った水のこと。
当然、ヒズミはその場でひどくむせかえり、苦しみ悶えた。
彼女にとってそれは日常的な出来事なので、感情的にはならず、ただ苦しむだけの時間だった。
ごまかせない吐き気と戦う彼女の目には涙がこぼれ、見えるものすべてが曖昧だった。だから、少年を追いかけて洞窟へ入っていく幼い自分。そんなものを見た。
やがて、彼女は自分の影を追いかけるように、洞窟を目指した。
その途中、水辺を歩いていた時、ヒズミの体に固い物が当たる。
足元に落ちたのは、まだ青い小さな木の実だった。何処から落ちてきたのだろう。と視線を移したその時、背中に同じ物が当たる。
横方向から飛んできたのが分かる当たり方だった。
次の瞬間には物影から一斉に木の実が飛んできた。ヒズミは痛みに耐えながら洞窟へ向かって走り出す。
何かの群れに襲われていることが分かっても、ヒズミにはどうすることも出来ない。
さっき飲んだ水で上手く声が出ない。出たところで助けはないし、何より、ぜんぶ自分が悪いのだ。という思いがヒズミを痛めつけた。
頬に当たって腐敗する木の実を見て、水面に映った醜い姿の自分を見て、彼女はどうしようもない哀れな気持ちになった。
あの群れの狙いは、ヒズミを湖から遠ざけることだったのだろう。彼女が洞窟に逃げ込んだ後、甲高い鳴き声はすっかりなくなった。
洞窟の内部構造は大きく屈折していて、昼間でも明かりがない。ヒズミは手探りで歩いていた。あるいは、ずっと昔の記憶を辿りながら歩いていた。
出口が近付くに連れ、少しずつ増していく光。ヒズミはその光景に見覚えがあった。
洞窟を出るとそこには草原が広がっていた。青々とした芝生が何処までも続いている。そして、一本だけ木が見える。
ヒズミは、安堵した様子で草原を走り出した。
その小さな足跡には骨灰のような粉末だけが残され、緑の大地に不気味な亀裂を作った。けれども、ヒズミはそんなことなど気にせず、草原に立つ、一本の木を目指した。
その木というのは、一見、これまで見てきた巨木と比べて何でもない、普通の木だが、たくさんの赤い果実が実っていた。
それは何処の世界を探してもない。この場所にしかない果実だ。
赤い果実はたくさん実っている。ただし、それは少し高いところのことなので、ヒズミはぴょんぴょんと飛び跳ねた。
しかしあと少しのところで届かない。ヒズミは少し疲れてしまって、木の根元で休んだ。
その木は不思議なことに、ヒズミが身を任せても、腐らないし、壊れないし、死ななかった。彼女にとってそういう存在は稀だから、とても心地が良かった。
眠ってしまいたいくらい心地良い。瞼が重い。そんな時、何かが落ちた音がした。
あたりを見ると、手元にひとつの果実が落ちていた。自然に落ちてきたようだ。
顔に近づけると甘い匂いがする、美味しそうな果物。
思わず口を開いた少女はそこで手を止め、頭上を見上げる。木にはまだたくさんの果実が残されていた。
「シャリッ……」
食べた途端、瑞々しい果汁が口の中いっぱいに広がり、ヒズミは動けなくなった。未体験の味がした。
美味しいのか、美味しくないのか。少女にそれを判別することはできない。ヒズミが知っているのはひとつの味だけだから、比べようがない。
でも、まだ食べたいという気持ちになるということは、これは美味しいということなのかもしれない。
美味しい物を食べるというのは、こんなに素晴らしいことなのか。
ヒズミは、そんな風に思いながら死んだ。
少年のことはあまり考えたくなかったけれど、やっぱり少し考えてしまった。
A suivre...
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