窓から臨める世界は果てしない。しかし、窓枠という境界線を踏み越えることも決して許されない。
夕闇に落ちようとしている街の風景は、シルクのカーテンによってゆっくりと閉ざされた。
そこはとある女性が入院する個室病室。
全面乳白色の壁と中央に置かれた純白のベッドが病室特有の雰囲気をかもしだしている。出入り口はたったのひとつ。その扉を開いたのはランドセルを背負った少女だった。
「きたよー」
「いらっしゃい、アキ」
アキと呼ばれた幼い少女は慣れた動作でランドセルを背中から下ろす。その対面では彼女の姉と言っても差し支えない年齢の女性がベッドに身を任せている。
骨折しているのだろう片腕を三角巾で固定し、頭に幾重も包帯を巻いているこの女性の名前はヒズミという。
「ランドセル、そこに置いたら?」
ランドセルを膝に載せ、備え付けの椅子に腰かけているアキ。ヒズミは何も置かれていない床頭台を指さした。
「いや、いーよ」
アキは赤いランドセルをそっと抱きしめる。
その不可解な様子についてヒズミはあえて詮索しない。何か大切な物が入っているのだろう程度の考えを浮かべ、起き上がった状態のベッドにもたれかかった。するとアキは嬉しそうに話し始める。
「ねえ、ヒズミちゃん。今日は何の日か知ってる?」
「……二月十四日、バレンタインデーね」
二月のカレンダーに目を移し、半ば棒読みで答えるヒズミの有様に、アキはやれやれというような仕草をした。
「忘れてたでしょ」
「今年はチョコを渡す予定がないから忘れていても良かったの。兄さんは引っ越してしまったし、お父さんには甘い物を少し控えて欲しいわ」
ほとんど無表情でスラスラと言ってのけたヒズミ。やや戸惑いながらもアキは尋ねる。
「家族以外にチョコを渡したいって思う人はいないの?」
ゆっくりと目を閉じたヒズミは一呼吸おいてから、
「とくに思い付かないわ」と答えた。
後には時計の針がかちかちと動く静寂と微妙に気まずい雰囲気だけが残され、今度はヒズミの方から口を開いた。
「私のことはともかく、アキはどうなの? チョコをあげた人はいる?」
こくりと頷いたアキは指折りその人数を数え始めた。しかし途中で面倒になったらしく適当な言い方で述べる。
「友達と一緒に作ってあげたからけっこういるよ。お父さんと学校の先生と、あと、友達の男子にも配った。ぜんぶ義理だけど」
子供らしいイタズラっぽい笑みを浮かべている。
「アキの御眼鏡に叶う男の子はなかなかいないのね」
「ヒズミちゃんくらい大人ーじゃないと無理だな、うん」
アキは一人で納得し、それからはっとした表情でランドセルを開き始めた。
一瞬、カチャという金属の擦れる音がして被せが裏返り、アキが何かを取り出す。
「ところでヒズミちゃん、甘い物は好きかな?」
「大好き」
優しい表情でそう言ったヒズミの前に差し出されたのは、青いソフトペーパーで出来た小包。
「開けてみて」
急かされて封を解いたヒズミは、小包の中から三粒の茶色いかたまりを見つける。手に取ると固く、統一性に欠ける凹凸の肌触り。それは少し不格好なトリュフチョコレートだった。
「とうぜん、これはヒズミちゃんのチョコです」
「ありがとう、アキ」
「べ、べつにー」
アキは嬉しさと気恥ずかしさを行ったり来たりさせ、ベッドに顔をうずめた。
ヒズミは手に取ったチョコレートを蛍光灯の光にかざし、疑問を口にする。
「でも、バレンタインデーって男性にチョコをプレゼントする日よね?」
「え、ヒズミちゃん。友チョコって知らないの?」
「知らない」
ヒズミは短い言葉で即答した。
「友達にあげるチョコのことだよ。最近流行ってるというか、なんと言いますかなー」
「そうなんだ」
ぼんやりと呟いたヒズミの顔は小さく微笑んでいた。
「チョコ、食べないの?」
アキはベッドから顔を上げ、心配そうにヒズミを見詰める。
「食べるわよ?」
こともなげに答えたヒズミはその言葉通り、手に取った一粒を半分かじってみせた。
「美味しい。アキはお菓子屋さんになれるでしょうね」
「やったー!」
病院ということを忘れて大喜びするアキを見て、ヒズミは残ったもう半分を口に入れる。
「うん、美味しい」
「どうしたらもっと美味しく出来るかな? 将来お菓子屋さんになるこのアキに何かアドバイスを!」
「ちょっと待ってね」
興奮した面持ちのアキを制し、ヒズミはティッシュペーパーで口元を拭う。その動作はアキを内心やきもきさせるほど緩慢だった。
流石に妙な違和感を覚えたアキは理由を尋ねようと思ったが、それよりも早くヒズミの口が開いた。
「もうちょっと甘さを抑えてみたらどうかしら。その方がチョコの風味が残って良いと思うわ」
「甘さ控えめに作ったつもりだけど、なるほど、なるほど。でも、あれ? ヒズミちゃんは甘い物が好きなんだよね?」
「アキ、今日はこれから塾があるんじゃなかったかしら?」
ヒズミの目線の先には刻々と秒針を歩ませる時計があった。促されて目を移したアキは思わず声をあげる。
「わっ! もう行かなくちゃ! どうしてもっと早く言ってくれなかったの!?」
八つ当たりのようなことを言って身支度を始めたアキの背中へ、ヒズミは声をかける。
「チョコレート、本当にありがとう」
「はは、大袈裟だな−。じゃあ、またね」
最後に小さく手を振り合って、アキは病室を出て行った。例の違和感の正体を掴めないまま。
「ご飯の時間ですよ」
しばらくするとアキに代り、若い女性看護師が病室に入って来た。ヒズミはチョコレートの小包をさりげない動作で床頭台の中に隠す。看護師の表情に変化はない。
彼女の手には夕食で彩られた清潔なトレイがある。
「テーブルの高さはこれくらいで大丈夫ですか?」
看護師は移動テーブルをゆっくりと動かし、ヒズミの手が届く場所に設置する。そして、テーブルにトレイを置いて一旦ベッドから離れた。
「どうぞ、召し上がって下さい」
小振りの煮込みハンバーグを中心とした香り立つ夕食を前にヒズミは動きを止める。そして、「いらない」という一言でトレイを一瞥し、リモコンのスイッチでテレビの電源を入れた。
無言でザッピングを続ける彼女に、看護師は困ったという顔で声をかける。
「ご飯を食べないと免疫力が低下して、怪我の治りが悪くなりますよ?」
「そう、それは大変ね」
他人事のように興味のない口振りで返したヒズミが観ているのは、やけに道徳的な内容の教育番組だった。
「そう言わずに食べましょう?」
その、まるで聞き分けのない子供をあやすような対応に眉をひそめたヒズミはリモコンを連打し、テレビの音量を下げた。
「なら、あなたが先に食べて見せて。そしたら私も食べてあげるから」
「弱りました」
苦笑いでやり過ごそうとする看護師に、ヒズミは「毒が入ってるかもしれないじゃない」と付け加える。
あまりの物言いに看護師は僅かに頬を膨らませた。
「では、ひとくちだけ。本当は駄目なんですけど」
降伏する他なかった被害者という体で煮込みハンバーグを口へ運ぶ彼女の表情には、隠し通せない喜びがある。
「美味しい?」
ヒズミの一言で我に返った看護師は、じっくりと間を置いてから微笑みかけた。
「ほら、毒なんて入ってませんよ?」
「答えになってないわ」
冷淡な声色で制したヒズミは、しかし約束通り箸を手に取り、看護師と同様に煮込みハンバーグを口に入れた。
ヒズミは目を細めてじっくりと咀嚼する。看護師はその様子を口をつぐんで見守っていた。
と、ヒズミは急に青い顔をして食べていた物を吐き出す。
「気持ち悪いっ」
ペットボトル入りのミネラルウォーターをがぶ飲みする。
しばらくして落ち着きを取り戻したヒズミは、看護師に言葉を投げかけた。
「味のない食感だけのかたまりが口の中でポロポロ解けていく感覚、喉の奥に迫る感覚。あなた、想像出来る? まだ気持ち悪いの」
嫌悪感をあらわにして口元を拭った彼女は手に付いたドミグラスソースを見て、唇を噛み締めた。
しかしその悔しさを言葉にすることはない。
彼女は分かっている。悪いのは夕食の献立ではなく、ましてやそれを運んだ看護師などではなく、事故で味覚を失った自分だと分かっている。
ヒズミは箸を置き去りにして、カーテンの向こうにある暗闇を見詰めた。
「いい加減、諦めたらどうなの」
看護師は何も答えない。ただこぼれた肉を片付け、トレイの汚れを綺麗に拭き取る。
「いつまでも、しつこい人ね」
ヒズミは振り返らず、そのまま話し続ける。その声は僅かに震えていた。
「べつにあなたのことが嫌いなわけじゃないの。あなたは気が利くし、頭の回転も早い、良い看護師だと思う。でもあなたが配膳に来る度イライラさせられるのも事実だから。私のことはもう放って置いて。その方が、仕事も捗るでしょう?」
「そんな。私は」
看護師が言葉を返そうとしたその瞬間、ヒズミの片腕がトレイを勢いよく払いのける。落下した食器が激しい音を立て、夕食の中身が床に散乱した。
「あなたが悪いのよ?」
ヒズミは飛び散ったハンバーグを睨みつけてから再び身を縮めた。
看護師は一旦病室を出て行き、掃除用具一式を持って戻ってくると床の掃除を始めた。一見、手際良く作業をこなしている彼女だが、その内心はひどく動揺しており、それを押し殺して普段の冷静さを取り繕い続けていた。
「嫌われちゃったみたいですね」
少しでも場を和ませようと呟いた一言に対して、ヒズミが反応する。
「ねえ」
「なんですか?」
「仮に、私がこんなことをする理由があなたへの当て付け、嫌がらせだったらどうする?」
その問いかけに看護師は掃除する手を止めた。しかしすぐに働き始めた。彼女がヒズミの言葉に応えたのは掃除が終わり、病室を出て行く直前のことだった。
背中を向けたままのヒズミに看護師は、
「例え、そうだったとしても。人間、そんな簡単に変われるものじゃありません」
病室を出て行った。
無音の病室に残されたヒズミは、床頭台に隠していたトリュフチョコレートを取り出した。
その一粒を照明の光にかざし、それからゆっくりと口に入れる。
口の中いっぱいに溶け出す濃厚なチョコレート。彼女は指に付いたものまで舐め取り、ただ一言。
「アキ、本当に美味しいのよ?」
呟いて、静かに涙を流した。
A suivre...
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