とある日常を彩る人

2013年07月22日 22:23
 思い上がりで上京した僕は、夢破れて、貧乏暮らしをしている。
 ぼろいアパートで不味い弁当を食べて、分かりきった内容の漫画に少し笑う。そんな毎日です。
 収入源は掛け持ちしているふたつのアルバイト。どちらとも地味な作業を淡々と続けるもので、僕に向いていると言えば向いている。自分で言ってて少し悲しいけど。
 昔、学校の先生は言った。「生き甲斐を持ちなさい」と。
 でも先生、僕にはそれは無理ですよ。
 何よりかけがえないと信じていたものが、実は全然そんなことなかった時の虚しさを知ってしまった今の僕には、先生のありがたいお話さえ、薄ら寒いジョークに聞こえます。
 というか先生の生き甲斐って結局、女児の盗撮だったんですか?
 一人暮らしを始めてから急激に独り言が増えた。むしろ、人と話している割合より高い。
 注意してくれる人がいそうにないので、きっと、これからも増え続けるのだろう。
 すごく、ぞっとした。
 
「おはようございます。良いお天気ですね」
 隣の部屋には山名さんという女性が住んでいる。彼女は会う度、丁寧な挨拶をしてくれる。
 越してきたばかりの頃、それを普通のことだと思っていた僕は、他の住人が無言ですれ違う風景を目にするまで、彼女が稀な人だと気付かなかった。
 肩にかかる艶やかな黒髪と、柔和な笑顔を見せる糸目が印象的な女性だ。あと、僕より少し年上だと思う。
 密かに年上好みの僕は彼女に見惚れてしまうことが多々あるのだが、残念。彼女は既婚者だ。なおかつ、一児の母でもある。
「あの、秋田さん。どこか具合でも悪いんですか?」
「えっ、いや、なんでもないです。少し考えごとをしていて。……おはようございます」
「なら良かった」
 軽く手を合わせ、ニコリを微笑む彼女を見て「これはもしや、僕に気があるのではないか?」と勘違いしたのは一度や二度ではない。
「今日も学校、頑張って下さいね」
 そう言って、山名さんは部屋に戻っていった。ちなみに僕はこれから某大学へ向かう大学生という設定になっている。山名さんは僕を勤勉な大学生と勘違いしている。
 騙したつもりはない。僕に漂う学生っぽい雰囲気が彼女を勘違いさせたまま数ヶ月経ち、真実を打ち明けることが不可能になっただけだ。
 山名さんとは毎日会う関係でもないし、会う時々でその場しのぎのことを言ってもバレないので、今のところ上手くいっている。
 などと、浮気性の戯言みたいなことを思う。
 つまり、要するに、僕はこれからバイトへ行かないと駄目なんだ。
 
 黙々と商品の包装を行うバイトを一年近く続けている。時給は良くない。悪いとも言い切れないけど、決して良くない。続けているのは仕事に慣れているからだ。
 包装紙にシワひとつなく商品を包むのは、最初とんでもない神業に見え、——実際やってみると苛立つほどに難しいのだが、——それが今では自分の手に染み付いているのだから改めて思うと不思議というか、我ながら大したものだ。
 最近では新人の指導を任せられたりするし、やるじゃん僕。という具合に辞めるタイミングを失う毎日だ。
 そもそも他にあてもないので、実際、辞めるわけにはいかない現実です。
「先輩! 今日、空いてますか?」
 なんのことを聞かれているんだろう? 空いている? ああ、予定か。
 最近、指導している新人の犬井君は、名前と似合って子犬のように人懐っこい。ここに来てまだ間もないのに、おばちゃん連中から絶大な支持を集めているある意味、期待の新人だ。
 まだ何も答えていない僕を置いて、犬井君は話を続ける。ちょっとテンション高い。
「合コン、行きませんか? 男連中の一人が急に来られなくなって、もう頼れるのは先輩しかいないんです」
「そ、そう。なんだ」
 最終的に僕を頼るまでの経緯を聞きたいが、とりあえず、笑っとこう。
「ほら先輩、彼女欲しいって言ってたでしょ? 俺はびびっときたわけです」
 びびっときちゃったのか。当の本人は忘れていたんだけどな。
「行けそうですか?」
 そんなつぶらな瞳で見つめられても、
「女子大生ですよ?」
 念を押されても、
「ごめん。今日はどうしても外せない予定があって。無理、なんだ」
 僕は無意識のうちに手を合わせて謝っていた。
 それを見た犬井君は何かを言い加えようとして、それから、やっぱり止めようという様子で去っていった。しょんぼりしていた。
 その小さな背中に、僕はもう一度謝った。
 ごめん。本当は予定なんて何もないんだ。でも、僕はそんなよく知らない人の中で陽気になれる人間じゃないし、これが最善の措置だったと思うよ。
 住み分けって考え方はけっこう大事だと思うんだ。
 その後、合コンの件がどうなったのか分からないままバイトは定時を迎えた。残業はなかった。
 日はまだ浅いし、僕は気分転換にカラオケボックスへ向かった。
 
 僕の数少ない趣味、というかストレス発散方法は一人カラオケだ。
 訝しげな表情をした店員とのやりとりを終えて、指定された部屋に入ってしまえば後はこっちのもの。好きな歌を好きなだけ歌う。
 と言っても僕が歌える歌は多くない。学生時代から応援しているバンドの歌ばかりだ。
 流行というものを嫌っているわけじゃない。でも無理に流されるものでもないと思うから、音楽については世間と相成れないところがある。
 それを理解した上でも、僕等は変わらないと語り合った仲間と共に上京した頃、僕はプロのミュージシャンになることを夢みていた。
 音楽で食べていくことが、途方もなく大変なのは分かっていた。ただ、想像以上に大変だったので、仲間は次々いなくなって、とうとう僕は一人になって、それでも負けてなるものかと立ち上がる。そんなことを繰り返していたある日、愛用のギターが壊れた。
 高校時代から使っていた使い古しの安物だから、そりゃ当然、壊れる時は壊れるのだが、その時の僕は、何故だかそれを運命だと感じた。
 神様が、夢を諦めろというメッセージを送っているのだと思った。
 あれからギターは壊れたまま、押し入れの中。僕は僕で、ミュージシャンになる夢を一人カラオケの時に得る優越感で満たしている。
 他人の作った歌を歌って気持ち良く過ごせるのだから、たぶん、ハッピーエンドだ。
 
 カラオケボックスを出てしばらくすると、ぽつりぽつりと雨が降り出した。天気予報は外れたみたいだ。
 家に帰る途中だった僕は仕方なくコンビニで傘を買い、帰路に戻った。雨は好きだけど、この街の雨は僕の知っている雨と少し違う。
 少しの違いが積もり積もって大きな違いになって、近頃、僕は雨が嫌いになった。感化されるとはこういうことか。
 お馴染みの十字路を右に曲がってしばらく行ったところにバス停がある。
 遠出する用事がない僕は滅多に使わないけど、アパートから割と近い場所にあるし、結構便利なものだと思う。
 その屋根の下、なんだか見覚えのある親子がいるなと思ったら山名さん親子だった。
「こんにちは」
「こんにちは。秋田さん、学校の帰りですか?」
「ええ、まあ」
「ひどい雨ですね」
 山名さんは小さな男の子と手をつないで立っている。この男の子は山名夫婦の息子に違いない。どことなく山名さんの面影がある。
「息子のタカシです」
 僕は、普段ほとんど機能してくれない愛想をフル稼働して、「タカシ君はいくつかな?」と聞いてみた。
 するとタカシ君は右手の指を四本立てて、「よんっ」と言った。なんだこの可愛い生き物は。
「僕も四歳だよぉ」
「……」
「……」
 さて、渾身のギャグがすべったところで、僕はひとつのことに気付いた。
「山名さん。もしかして、傘、持ってないんですか?」
「はい。実は、少し困っていたんです」
 苦笑いする山名さん。
 ここからアパートまで大した距離はない。歩いても五分かからない。この距離のために傘を買うのはもったいないと考えるのが主婦の鑑だろう。
 とは言え、幼い息子を連れて雨の中を走るというのも避けたいところだ。
「もし良かったら。一緒に帰りませんか?」
 それは、僕にしてはだいぶ気の利いた台詞だった。
 
 僕と山名さんと山名さんの息子、タカシ君は、ひとつのかさの下に入って同じアパートを目指しています。
 コンビニで買った安いビニール傘に三人全員が上手く入れるはずもなく、僕はさりげなく傘から外れて二人を雨風から守った。
 なんか、父親になったような気分だった。けれど、それも束の間のことだった。
「あの」
 雨にかき消されそうな小さな声で、山名さんが話し始めた。
「昨日はうるさくして、ごめんなさい。いえ、これまでのことも含めて、ごめんなさい」
「お母さん?」
 タカシ君が不安そうな顔をしている。これじゃまるで僕が悪者じゃないか。
「僕のことは気にしないでください」
 なんとなく、ごまかしてしまおうと思っていた僕は、この時、すごく面倒くさい気持ちになった。
「でも、謝らないと駄目。こうやってちゃんとお話しする機会があれば、絶対そうしようと思っていたの」
 彼女の表情は顔を見なくてもだいたい分かる。だから僕は見なかった。胸糞悪い。
「ほら、ちょうどこの年頃が一番やんちゃって言うじゃないですか。元気が有り余ってるんですよ。羨ましい。ね、タカシ君」
 僕がそう言うと、山名さんは「そうね」と一言だけ答えた。
 会話はそこで途切れる。
 タカシ君は泣き始めるし、アパートまで近くて本当に良かった。
 
 なんとか無事、家まで帰ってきた僕は簡単な夕食を摂り、シャワーを浴びた。そうするとやることが全然なくなってしまったので、布団にもぐった。
 深夜のバイトに備えて、睡眠をとっておくのも大切だった。
 薄暗い部屋の中、天井を見詰めていると実家の天井を思い出す。とくに自分の部屋の天井を思い出す。
 白い天井。ひょうたん型のシミがある天井。
 あの天井をリアルタイムで見上げていた頃の僕は、自分に納得していなかった。
 何一つ目標のない自分とそれをなんとなく肯定してくれる世界に呆れていた。
 それに甘んじるほかない自分に、最も呆れていた。月並みな願いだけど、自分の生き方を自分で選べる人間に生まれ変わりたかった。
 小学生の時、伯父の命令で半強制的に参加させられた町内ののど自慢大会で三位をとった。
 そんな些細な栄光をひっさげ、故郷を後にした僕は、この街にきて、生まれ変われただろうか?
「寝よう」
 
 目が覚めたのは出勤時間の二十分前だった。携帯の目覚ましはどうした? あ、携帯の充電ごと切れてる。完全に、コミュニケーション不足の弊害だ。
 寝ぼけ眼を擦る暇もなく立ち上がった僕は、大急ぎで準備をする。人目につく仕事でもなし、見栄えは最低限で許されると思う。
 ただし、遅刻はまずい。和気藹々とした職場なので、店長に余計なことまで告げ口されて大目玉を食らいかねない。
 部屋を飛び出し、玄関に鍵をかけた。その時、隣の部屋で大きな物音が聞こえる。
 何か重い物が崩れ落ちたような音だ。こんな時間帯に立てて良い音ではない。
 やがて、山名さんの声が聞こえた。
「……お願いだから、やめて!」
 その声は叫んでいるようで、だけど押し殺したように小さくて、うまく聞き取れない。
 夕べ、傘の中で気まずそうにしていた彼女を思い出して、無性に腹が立った。
 続いて聞こえた同居している旦那さんの声は、更に聞き取れない。酒に酔っているのだろう。呂律が回って話にならない。全く聞き取れない。
 何か、山名さんに対する暴言を吐いて、捨てて。それからブツブツと独り言を呟いている。そんな印象だ。
 でも、だから、どうした? いつものことじゃないか。
 放っておけば、収まるんだ。
 そう思い直した僕は、山名さんの部屋を横切って、階段へ向かう。
 その途中、空気が破裂したような音がして、思わず足が止まる。そして、アパート全体がシンと静まりかえった。
 それはまるで時間が止まったような感覚だから、僕はその場を動けなかった。
 タカシ君を連れて、部屋から出てきた山名さんを見てしまったのは、どうしようもないことだった。
 挨拶なんて何もなく通り過ぎた山名さん。月明かりが照らしたその頬には、大きな痣があった。でも、涙なんて一粒もなかった。
「お母さん? 大丈夫?」
 タカシ君の問いかけを残したまま、山名さんは何処かへ消えてしまった。
 開けっぱなしの扉がいきなり「バタン」と音を立てて閉じた時、僕はけっこう本気で人を殺したいと思った。
 でも、実行はできない。
 何故なら先生、僕はあの頃からちっとも変わっていないからです。
 いや、特別な人間になりたかったわけじゃないんです。
 こういう時、感情的になって人を殺したりする。そういう人になりたかったのかもしれません。
 
 数日後、山名さんはアパートを出て行った。
 引っ越しの業者がきて、トラックに荷物を積んで、僕はその過程を目にしたはずなのに、彼女の消失はまるで煙のように不確かなものだった。
 最初からそんな人はいなかったと思うことが出来たらとても楽だろう。
 だけど、僕は覚えている。
「おはようございます。今日も良いお天気ですね」
 最後の朝、彼女がそう言って微笑んだことを覚えている。
 旦那さんとはどうなったのか。何処へ引っ越すのか。タカシ君のことは……。
 結局、僕は何も聞けなかったけれど、彼女はとても素敵な笑顔だったから、とても素敵なことがあったのだと信じたい。
 そして、僕のうだつ上がらない日常が再開した。
 
A suivre...
 
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